2歳児の保育「三つ子の魂デシデシドン5」

5,おててつないで

6月末

 朝のお集まりが始まる前にルーシーが

「今日、散歩でいいよね。」

と僕たち二人に確認を取った。

「いいよ、昨日のうちに田んぼで届け出してたもんね。」

僕がそう受けると

「うん、出したよ。」

とルーシー。散歩に行くときは前日までに「園外保育計画書」を出して園長、主任の許可を得ておかなければならない。計画書には目的地とそこに至るルート、出発時間と帰園時間、参加者人数、保育士の携帯番号などを書く。

 梅雨にはもうすでに入っているが今日はよく晴れている。毎週水曜日はここのところ園の周囲の散歩に出ている。理想の散歩は子どもたちが自然の中を思いのままに歩き、草や花、木や生き物に興味関心を持って接するような、そんな散歩であればよい。計画書など事前に出すことなく思い立ったら行けるに越したことはない。しかしそこそこの都会の住宅地の中にあるこの保育園の周りに、そのような自然はない。かろうじて残っている自然といえるものは、小学校の校庭の木や池、それにほんとにわずかに残っている田んぼぐらいだった。少し大きくなれば多少遠出をして、広かったり、樹木が多かったり、遊具があったりする見栄えの良い公園や、社会見学の一環として交番、消防署、駅などにも出かけるが、まだ歩き始めて2年たつかたたないかのメンバーでは行ける所も知れている。

 車道に併設されている歩道を歩くというのは危ないと言えば危ない。こちらがちゃんと歩道を歩き、交通ルールを守っても歩行者に突っ込んでくる車はいくらでもいる。車だけではない。どこかの都市では建築現場の足場が倒れ、その結果、尊い命が失われることもあった。そうであっても僕たちは子どもたちに散歩の経験を積ませてあげたかった。友だちと一緒に手をつないで歩くことは友だちの息遣いや歩調を感じながら、友だちに思いをはせながら体を動かさなければできないことだし、友だちと同じものを見て、感じて、話して、喜んだり笑ったり、時には怖がったりすることは何物にも代えがたい。友だちと一緒に散歩をすることは保育園でしか味わえない貴重な体験であると思うからだ。そのために事前に園庭で歩く練習をしたり、ルートの下見をしたり、散歩中は保育士同士、連携を取りながら最善の位置についたり、常に安全のことを考えるようにしている。もっとも2歳児クラスに関しては本当に保育園の周りをぐるりと回るか、近くの田んぼか、小学校、少し離れた児童公園ぐらいにしか行かないのだけれど。

 

 ルーシーが園庭の門のところに避難ロープを広げて置いた。乳幼児の緊急の避難のためのロープで、ロープの両側に輪投げ用のリングのようなものがついている。目指すべきは友だちと「おててつないで野道を行けば、みんなかわいい子鳥になって、歌を歌えば靴が鳴る」ではあるが、まだまだみんなでおててをつないで野道を行くことはむずかしかった。

 

 5月の末の昼休みにこのことについて三人で話し合った。

「散歩どうする。」

父親が散歩好きの影響で自分自身もそうなり、保育に散歩は欠かせないと思っていた僕はリーちゃんルーシーに聞いた。

「そろそろ行きたいよね。」

とルーシー。

「慣らし保育もおわったしね。」

とリーちゃん。

「この子たちって1歳児の時どこまでしてたんだろ?手をつないでいけるのかな。」

昨年、今年と同じ2歳児クラスを担当し、隣の1歳児クラスを見てたであろうルーシーに聞いた。

「多分、できないと思う。やってないし。」

「避難ロープは?」

と僕。

「さあ、そんなにやっていないんじゃない。歩ける子を2,3人担任が手をつないで、あとは散歩車っていうのは見たことがあるけど。」

「去年の1歳児担任、だれだっけ。」

元担任に聞けば手っ取り早いと思いルーシーに聞いてみた。

「トッキ―とふきちゃん。」

今はフリーのトッキ―27歳。ふきちゃんは0歳児担任。25歳。

「二人に聞いとくか。去年の2歳児はどうしてた。」

「散歩に行き始めたのは秋ごろだと思う。」

「手をつないで?」

「いや、最初は避難ロープで園の周りを一周。」

「やっぱそのへんからか。いずれは手をつないで行きたいよね。」

「それには少し練習がいるかもね。」

「園庭とか?」

「それに室内でも図書コーナーに行くときとか。」

「ところで、散歩ってどこに行くの?」

それまでルーシーと僕の話を聞いていたリーちゃんが聞いた。

「去年は園の周りから始まって、小学校の校庭や近くの田んぼかな。大きい子は中学校の近くの畑に行ったりするけど。」

ルーシーが答えた。

 

 この子たちが1歳の時の担任のトッキーに聞いてみたら避難ロープを使った散歩はできず、もっぱら散歩車に子どもを乗せ、歩ける子を2,3人保育士が手をつないで園の周りを1周していたとのことだった。試しに園庭で避難ロープを使って歩いてみた。先頭はリーちゃん、真ん中にルーシーがいて一番後ろは僕。周りに樹木や遊具があるにせよ一般的な土の園庭なのでただ黙って歩いても間が持たない。子どもたちはとりあえずロープについてる「わっか」に興味があるのか、「わっか」をつかんで歩いてはいたが、いかにも歩かされているようで、なんだかなーと思っていたらリーちゃんがトトロの「さんぽ」を歌い始めた。2歳児には少し言葉が難しいけれど、そこは耳で覚える保育園児、自然と口ずさんでいる子どももいる。心なしか歩く姿に元気が出てきた。続いてのBGMは「靴が鳴る」。けれど子どもたちは知らないのか一緒に歌う子どももいず、あっという間に終わってしまった。「さんぽ」をもう一度繰り返したところでリーちゃんが

「もういいかな。」

と言ったので

「いいんじゃない、歩けるみたいだし。」

とルーシーが受けた。

「はーい、みんなストップ。おててはなしてあそんでいいよ。」

と言うと子どもたちはそれぞれ思い思いの場所に散っていた。

 さしあたって避難ロープでみんなで歩けるようだけど思い描く散歩とは程遠いような感じがした。しかしまずは最初の一歩。安全第一で進むことにした。

それから2度ほど保育園の周りを避難ロープを使って歩いてみた。距離が短かったこともあり、手を離す子どももいず、まずは順調だった。これだったら少し距離を伸ばしましょうということで近所の田んぼまで行くことにした。

 

 僕は散歩用リュックを背負い、靴箱で子どもたちが靴を履くのを手伝っていた。リュックの中には替えのズボン、シャツ、おむつ、パンツ、ティッシュ、ビニール袋、ウエットティッシュ、そして水筒に紙コップなどが入っていた。靴を履き終わった子どもたちがルーシーめがけて走っていった。瞳、武士、朝美、といつも早い子がやっぱり今回も早く準備ができた。

「すきなところをもってすわってまってて。」

ルーシーはおそらくそう言ったのだろう。子どもたちはロープのわきで座っていた。部屋の中にはリーちゃんが、これまたいつものんびりと準備をしている波や達彦の準備を手伝っていた。遅いからと言ってまるっきり手伝うことはない。あくまで自分でできるところは自分でやってもらっていた。それでも散歩に行くときは子どもたちも散歩には行きたいので、準備もただ園庭で遊びますよ、お外に行く準備してください、よりははるかに意欲的に行う。やりたいことのために何をすればいいのかがはっきりしていれば準備もスムーズだ。次々に子どもたちが出てきて靴を履き、走ってルーシーのところに向かって行った。

「先に行ってるね。」

僕はリーちゃんに声を掛け、波と達彦以外で最後に外に出てきた千穂と義樹と一緒にルーシーのところに向かった。ほどなくしてルーシーをはじめ子どもたちや僕が待っているところに波と達彦が走ってきてそのあとからリーちゃんが小走りにやってきた。

「なみちゃん、たっちゃん、あいているわっかつかんで。」

とルーシーが言うと波は自分で探すことができたが達彦は依然としてきょろきょろし

「うーん」

と言ってべそをかきそうになった。

「だいじょうぶ、たっちゃん、あきちゃんのとなり、あいてるから。あきちゃん、おしえてあげて。」

僕がそう言うとあきは達彦に向かって手招きをした。あきは言葉は出ているがおとなしいし、ジェスチャーも小さめだ。達彦は半ばパニックになりかけているので、そんなあきの手招きなど眼には入らないようだ。

「たっちゃん、ほら、あきちゃんのとなりがあいているよ。」

僕が達彦の横についてあきのほうを指をさすがやはりわからない。しょうがないので手を引いてあきの隣に連れていき、わっかをもたせてあげた。達彦はすぐに機嫌を直し、少し微笑んでもいた。切り替えは早い。

「オッケー?」

とルーシーがリーちゃんに尋ねると

「うん、いいよ。」

と答えた。

園の事務室は園庭の門のわきにあった。ルーシーは事務室の窓をあけ、主任のモコさんに

「田んぼまで行ってきます。18人です。」

と元気よく言った。

「天気が良くてよかったね、気を付けてね。」

「そうですね、みんな、モコさんにごあいさつしてからいこうね。せーの、いってきまーす。」

子どもも何人かは挨拶しているのだが、ルーシーの声が元気良すぎてかき消されていた。モコさんはたぶんそれに気づいていたのだろう、苦笑して

「いってらっしゃい。」

と言いながら手を振った。子どもたちはそれに手を振ってこたえていた。門を出ると園のフェンスに沿って歩道を30メートルほど行く。園のフェンス前には花壇があって少し枯れかけのチューリップがあった。今はたまたま少し寂しいが、春先にはスイセンやチューリップ、パンジー、夏にはバラやアサガオアジサイ、秋にはポピーやコスモス、ヒガンバナが咲き、地域の皆さんの憩いにもなっていると思う。

 列の中央には僕がいて、一番最後にリーちゃんがいる。あまり自動車の通るところではないけれどやはり細心の注意は払わなければならない。30メートルほど行った先は四つ角になっている。横断歩道はない。ここを渡って更にまっすぐ行く。

「これから道路を渡るからね。」

ルーシーが子どもたちに一声かけた。僕は左右を確認して道路の真ん中に出た。前後を再度車がこないことを確認してルーシーに

「いいよ。」

とGOサインを出した。

「わたるよー。」

ルーシーが渡りはじめ子どもたちがぞろぞろとついて渡り始めた。もう少し慣れれば「おててあげて」とか「みぎひだりみて」とか声を掛けるのだが、まだロープを握っている事だけで子どもたちは精いっぱいだと思う。二つのことを同時にすることがまだ難しいことを考えると、まずは普通に歩いたほうが早く道路を渡ることができる。と、昨日のうちに打ち合わせ済みだ。幸いなことに車は来ずに全員無事にわたることができた。とにかく車が来ないことが一番危険度が低いので、遠くのほうに車の影が見えれば止まって端によって、車をやり過ごしてから渡るようにしようと話していた。道路を渡ってから7,80メーターは一戸建て住宅が続く。そのうちの一軒の門のところに茶色系の雑種の飼い犬が閉じられた格子の門扉の間から鼻先を出して「ハー、ハー」と声を出していた。

「ワンちゃんだー。」

誰かがそう言うと、達彦が近寄ろうとしたのでリーちゃんが

「たっちゃん、ワンちゃんびっくりさせると危ないからね。」

と言いながら達彦の胸に手を当てて前に行くのを止めた。

「ワンちゃんもおさんぽにいきたいのかもねー。」

ルーシーがそう言いながら進んでいき、子どもたちもわんわんにバイバイをしながらルーシーについて行った。犬は「ハーハ―」と言い、最後に「クーン」と言ったときには少し切なくなった。

 イヌやらネコやら動物に気軽に触れたいのはやまやまだ。ただ、あの有名な先生がライオンに指を食われたり、女優がライオンに襲われたりしたことが頭をよぎってしまう。その辺のイヌやらネコは確かに王ライオンと比べると穏やかではあるけれど、それでも「もしも」ということを考えてしまう。

 幅4メートルの道路だけれど車はめったに来ない。一応右端を歩いてはいるが子どもたちはともすればふらふらと中央に寄っていく。その都度僕は

「はしっこよってねー。」

と声を掛けるが反応がよくないので、子どもたちの横に立って手を広げて

「まんなかでないでー、はしだよー、はしー。」

と押し返すようなジェスチャーをとる。

 住宅を抜けるとちょっとした畑があった。一戸建て二軒分ぐらいの土地に野菜と思しきものが植わっている。ナスやキュウリ、ネギぐらいはわかるがあとはわからない。実がなっているときに来たいのだけど、たぶん夏野菜だろうから暑くて来るのは少し難しいかもしれない。道端には草が生えていて小さな花が咲いている。名もなき花や草を友だちと見るだけでも、子どもたちの気持ちは違うと思う。同じものに共感したり、同じ体験を共有したりして心を通わせる。今の子どもは意図して散歩などに出かけないと、道端のものや周りのものを見る機会は極端に減っているような気がする。基本的に移動は車だからだ。そういう意味でもお友だちと散歩をする意義はある。

 畑を過ぎると家と家の間に少し狭い道がありそこを抜けると急に田んぼが見えてくる。それほど広くはなく、周りを住宅で囲まれたまぎれもない街場の田んぼだ。田んぼと住宅の間に幅2メートル長さ10メートルほどの空き地がある。草が生えており、小さいが昔ながらの空き地だ。園の周囲を見渡してもこういった昔ながらの空き地はここしかない。とても貴重な場所だ。空き地に入ると僕が土地の一番奥に立った。入り口側にはリーちゃんが立っている。所定の場所に僕たちが立ったことを確認してからルーシーが

「たんぼにおっこちないようにしてね。それじゃあそんでいいよ。」

と言うと子どもたちが三々五々散っていった。そこは普通のあぜ道のようなものなので田んぼは一段下にある。仮に落ちたところで泥のクッションで大けがはないだろう。全く目を離さない限り安心して遊べる場所だ。その田んぼを見ていた朝美が

「あれ、なに」

と指をさして聞いた。

「あれはあめんぼ。」

そう答えたが朝美は指をさしたままじっと見ていた。確かによく見ると不思議だ。よく水面をすいすい泳げるもいのだ。

「たまだくん、むしとってー。」

と幸夫の声が突然した。

「どれ?」

と尋ねると

「あれ、あれ」

と指をさす。

「どれ?」

と指さす方向をかがんでよく見ると小さなしょうりょうバッタだ。ひょいッとつかんで幸夫にあげようとすると、なぜかビビって後ろずさり。

「てをだしてごらん、だいじょうぶだから。」

それでもビビり気味に腰が引けてる。

「なんだ。」

と草むらに放してやると

「えーっ、とってー。」

「こんどはじぶんでとってごらん。」

そう幸夫に言うと幸夫はしぶしぶ腰を落としたがなかなか手は出せない。草むらには急に子どもたちが現れたものだからバッタが右往左往ピョンピョン飛び跳ねている。更に緑色の小さなアマガエルもいた。

「カエルもいる―、たまだクーン、ほらーカエル!」

友子が大声で叫んでいる。

「そうだね、いたねー。」

子どもたちがバッタやらカエルを捕まえようとするが、たかだか生まれて2,3年の子どもにそうやすやすと捕まえられるわけがない。彼らはこれから過酷な生存競争を生き抜かなければならない。ここで捕まるようなどんくささでは先行きどうなるかわからない、と思っているに違いない。

 

 ひとしきり遊んだ後ルーシーが

「たまだ君、水分補給。」

と言ったので

「はーい。」

と返事をしてリュックから水筒と紙コップを出した。近年真夏でなくても熱中症の可能性を指摘されている。夏はもちろんのこと4月から秋口にかけての天気の良い日はこまめな水分補給は外せない。

「みんな―、たまだくんのところにいっておみずもらっておいでー。」

そう言うと子どもたちが寄ってきた。一人ひとりに紙コップを渡して水筒から水を半分ほど注ぐ。それを子どもたちはごくごくと呑んだ。少しはのどが渇いているらしい。遊びに夢中になっている子どもにはリーちゃんとルーシーが一人ずつ丁寧に声を掛けていた。子どもが水を飲みに来て、入り乱れている状況では誰が飲んだか飲まないかわからなくなる。そのため、チェック欄を伴った名簿を用意して、飲んだ子どもにはレ点を付けて行く。

「たまだくーん、全員飲んだ?」

ルーシーが言った。

名簿を確認して

「オッケー牧場」

と答えると

「なにそれ。」

とルーシーに言われたが詳しい説明はしなかった。僕の世代ならだれでも知っている西部劇なのだけれど。

 まだ11時前だったが少し日差しが強くなってきた。ルーシーが

「ちょっと日差しがきつくなってきたから少し早いけど帰らない?」

と言った。

「そうね、帰ってから少し園庭で過ごしてもいいし、そのまま部屋に入ってもいいし、そうしようか。」

とリーちゃんが受けた。ルーシーが

「みなさん、そろそろあつくなってきたので、ほいくえんにかえるよー。どこでもいいからわっかもってー。」

とロープを空き地の出口側に並べて言った。子どもたちは三々五々集まってわっかを握り始めた。何事にも切り替えの早い子どもはいつもだいたい同じでさっさと次の行動に移っていく。瞳、隆二、渡、武士、朝美、千穂、康江はすんなりわっかを持って座って待っていた。僕とリーちゃんがまだ虫を追いかけていた子どもたち一人ひとりに声を掛け、待っている友だちを指さしてわっかのところに行くように促していた。言葉だけではまだまだ気づけないが、目で見るとようやく理解できる子どもも結構いる。

 

「ここかおちゃんのわっかだよー。」

薫が達彦に抗議していた。来るときにつかんだわっかの位置を薫が覚えていたようだ。自分の持ち物や場所について強いこだわりを持つ、自分と他人との違いがはっきり分かってきた証拠だ。達彦は全く動じずまっすぐ前を見たままだ。薫はますます怒って達彦がつかんでいるわっかを左手でつかみ右手で達彦を押し始めた。達彦はそれでも手を離さない。どちらかというと小柄な薫に比べると達彦はがっしりしている。押されてもびくともしない。そのうち薫が諦めて泣き出してしまった。

「かおちゃんのわっかだよ。」

薫はもう一度言った。少し様子を見ていたルーシーは薫の隣にしゃがんで

「あそこのところもちたかったんだね。」

と背中をさすりながら言った。薫は涙目をルーシーにまっすぐにむけてうなずいていた。

「たっちゃんもここつかみたかったんだよね。」

と達彦に声をかけたあと

「たっちゃんにつかませてあげてもいい?」

と薫に尋ねた。「どこでもいい」と言った手前、達彦に落ち度はない。ルーシーはとりあえず薫に聞いてみようと思ったのだろう。思いがけず薫は頷いた。おそらくは納得してとかというのではないだろう。ただ、ルーシーに気持ちを受けてもらったので少しは冷静になったのか、逆にもはやパニックに近いものがあるので訳が分からんけど頷いているのか。

「じゃあ、かおちゃんはここをつかんでもらっていい?」

ルーシーが言うと薫はまた頷いた。

 このようなトラブルになると「ハイハイはい」と割って入り、「かおちゃん、どこでもいいってせんせいはいいました。かおちゃんはあとからきたでしょ、たっちゃんがさきでしょ。かおちゃんはここつかんで。」と言ってさっさと保育士が解決してしまう場合が多い。かくいう僕もそのタイプだが、子ども同士のトラブルはとても大きな体験でもある。自分の気持ちと相手の気持ちが直接ぶつかる場なので自分を知り、相手を知る絶好の機会になる。ルーシーはその経験の機会を少しでも増やそうと思ったのだと思う。もちろんすぐ手が出てしまう場合もあるのでそこはケガのないようにすぐに止めなければならない時もある。またきれいに解決しない時もままある。むしろそのほうが多い。そんなとき自分の気持ちに折り合いをつけることが大切になると思うが、保育士に気持ちを汲んでもらうことがその助けになる。保育士はそう意味でも「どこでもいいっていったでしょ。」みたいに非難するのではなくその子の気持ちを尊重してあげるような言葉がけをしたほうがよいと思う。ルーシーはそう考えたのだ。そもそも、「きたところとおなじところをもって」というのも「すきなところをもって」というのも同じようなトラブルは起ったに違いない。ルーシーはより自由度の高い、言いかえれば子どもたちの言葉の力に合わせて、よりわかりやすいほうを選んだ。薫も最後のほうは訳が分からなくなっていたけれど、とりあえず気持ちを汲み取ってもらい、やさしく声を掛けてもらったので心地よい感覚は残ったはずだ。その感覚が積み重なっていくことで人への信頼感が生まれるのだと思う。

 

 さて最後の大物はどこ吹く風で遊んでいる。彼らは彼らなりの理由はあるのだろうが時間的な制約というものが世の中には残念ながらあり、どうしても帰る時間というものは容赦なく迫ってくる。彼らにお話をして聞き入れてもらえないのは全く我々の不徳の致すところではあるが、とにかく一緒に帰ってもらわねばならない。

リーちゃんがバッタかカエルを追いかけていた太郎と麦に声を掛けた。

「たろちゃん、むーちゃん、みんなまってるよ。きょうはかえろ。」

太郎はちらっとリーちゃんを見たが依然くさむらをかき分けている。

「ねえ、もうすぐ給食だよ、今日のご飯はなにかな。」

しばらくリーちゃんが説得にあたっていたがなかなからちが明かない。

「バッタさんがね、おうちにかえれないから、むーちゃんがかえしてあげるの。」

「だいじょうぶだよ、ばったさんもかえるさんもじぶんで、ばったばったかえるから」

二歳児にはおそらくわからないダジャレを無意識に使って説得をしているリーちゃんがおかしくて少し笑ったら

「たまだ君、笑ってないでてつだって。」

とあきれ顔をして言われ

「ごもっともです、むーちゃん、たろちゃん、おいていくよ!」

と八つ当たり気味に脅かしてしまい、あーまたやっちまった、と即反省をしたはいいが結局太郎と麦は全く動こうとしない。すると

「むーちゃーん、たろちゃーん、かえろー」

と待っている子どもたちが二人に向かって声をかけた。その声に反応して麦だけではなく、太郎も顔をあげた。二人とも草むらから何かの声を聞きつけ周囲を見渡すウサギとかリスのようだった。

向こうでルーシーが

「せーの」

と言った後に

「むーちゃーん、たろちゃーん、かえろー」

と再び子どもたちの声が聞こえた。すかさずリーちゃんが

「どっちがはやく、みんなのところにいけるかなー。」

と言った瞬間、麦がダッシュし、それにつられて太郎も走って友だちのところにいった。やれやれと言った表情でリーちゃんは僕のほうを見て少し笑った。

「むーちゃん、たろちゃん、準備はいいですか。」

とルーシーが言うと二人はそれぞれこっくり頷いた。

「それじゃ、園に帰ろうね。しゅっぱーつ。あるこーあるこー」

ルーシーが元気よくトトロの「さんぽ」を歌い始めた。これから何度かこの田んぼに散歩に来て、今はまだ背の低い苗の成長を見ることができる。秋には黄金色の稲穂を子どもに見せてあげることもできるだろう。その時までには、いやそれを待たずしておそらくは友だちと「おててつないで、のみちを」行く散歩ができているだろう。楽しみなことです。