2歳児の保育「三つ子の魂デシデシドン11」

11,トイレの皆さま

7月初め

 子どもたちが寝静まったのが1時半、ほぼいつも通りだった。僕は太郎を「とんとん」し終えてロッカーにもたれて子どもたちの様子をぼんやり眺めていた。いつものことなのだがまだ武士がもぞもぞしている。今日園庭であれだけ活発に動いても簡単には寝付けない、基本的な体力は十分なのだろう。ルーシーが添い寝をしている。武士が天井を見ながらリズミカルに首を縦に振りながら何か口ずさみ始めたのでルーシーが

「たけちゃん、みんなねてるからね。」

と一言。武士はすぐに黙り、目をぎゅっと必要以上に固く閉じ、くるっとルーシーのほうに寝返りを打った。

 

僕は図書コーナーで事務作業をするため机を用意しているリーちゃんに向かって

「トイレ掃除、入るね。」

と小声で言った。

「お願いします。」

と同じトーンで帰ってきた。普通にしゃべったところで寝入っている子どもたちが起きるということはないのだが、そこはリーちゃんの気遣いだった。

 トイレの壁に据え付けてある二段の棚の上の段の箱からほうき、ちりとり、バケツを取って同じところにある使い捨ての手袋をはめた。箱は棚にしっかりとビスで止められている。掃除用具などを入れておけるロッカーはこのトイレにはないので棚に置くしかなかった。そうは言っても掃除用具などを無造作に棚に置くと地震などが起こったときに危ない。というわけで棚にそれらが入るくらいの箱を固定した。バケツには3枚の雑巾がかかっておりそれぞれに「たな」「ゆか」「ベンキ」とマジック大きく書かれている。「ベンキ」だけがカタカナである理由はわからない。ルーシーかリーちゃんのその時の気分だろう。バケツに水を汲んで同じ棚の、洗剤ばかり入っている別の箱から塩素系の消毒剤を取って、キャップに半分の量をバケツに入れる。バケツには3リットルのところに線が引いてあり普段掃除のときには0.02%の濃度の希釈液を作る。子どもの生活の範囲で消毒剤を使うこと自体あまり好ましいと思っていないが、感染症対策ということで行政の指導もある。殺菌、殺菌というのもどうかと思っている。というのも感染性胃腸炎が流行った時、僕と同世代以上の職員はほとんどかからなかった。証拠がはっきりあるわけではないが、僕ら以上の世代は細菌やウイルスの宝庫「ぽったん便所」で用を足すのが普通だったし、まわりがそこまで綺麗というわけでもなかった。細菌やウイルスとともに成長したので多少抵抗力がついたんじゃないかと思っている。

消毒液を作ったらまずは床の掃き掃除から。毎日掃いているのだけれど人が出入りすればゴミも出る。どこにたまっているのかほこりも落ちるし、よくわからんゴミも落ちている。土、これは確実に子どもたちが持ち込んだもの。髪の毛、どこにでも必ずあるごみ。誰のだろう。掃き掃除が終われば拭き掃除。基本は汚れの少ないところから。「たな」と書かれている雑巾を使って蛇口、トイレのレバー、紙巻き器など人の手が触れるところ、便座の表側のおしりがつくところ、一回すすいで手洗い場のシンク回り、窓の額縁、棚、最後に便器のタンク。これを便器ごとに繰り返す。

手前から水色、桃色、水色、桃色と便器の色が交互になっている。設計者の意図をはっきり聞いたわけではない。「男は青、女は赤」みたいな価値観で育てられた昭和の人である僕から見ると、男子と女子が好む色が半々ずつかな、と想像ができ、あまり違和感はない。でも今の若い人は「なにこれー。」と思っているだろう。僕らの頃はそうだったが今はそういう時代でもない。

 

昨日の午後「うんち。」と言ってトイレに入ったあきが手前から二番目の桃色のトイレで頑張っていた。

「あきちゃん、どうしたの?」

あきが便器に座って前のめりになってしくしく泣いていた。

「いたい。」

「どこいたいの?」

僕は勝手におなかじゃないかと思いあきの横にしゃがんで顔を覗き込んだ。

「おしり。」

「おしり?」

僕はおしりのほうを覗き込んでみたが上からではよくわからない。

「ルーシー、あきちゃん、お尻痛いって言ってるけどわかる。」

「なんだろうね。」

と言いながらルーシーがトイレに来てあきに尋ねた。

「おしり、いたいの?」

「いたい。」

「おしりのどこいたいの?」

それには答えない。確かにおしり全体は何となくわかるだろうけど「どて」だか「ほね」だか「おしりのあな」だかなんてまだわからない。「ここー」と言って触れる体勢でもない。

「うんちでそう?」

「うん。」

べそをかきながら絞り出すようにあきは言った。

「少し様子見てる?」

とルーシーは僕のほうに向きなおって言った。

「それしかないか。」

べそをかいている2歳児に申し訳なさがあったが実際今はそれしかない。僕はあきの隣にしゃがんで背中をさするぐらいしかできなかった。その間もあきはしゃくりあげていた。

「いたいよなー。いたいよなあー。」

と繰り返す僕にしゃくりあげながら「うん、うん」と答えるあき。そんなことを幾度か繰り返すうちに

「でた。」

力のない声であきが言った。やっとやっとという感じが伝わってきた。

「よかったね、おしりはいたくない?」

それには何も答えなかった。ただもうべそはかいていなかった。多少痛みも緩んだのだろう。

「あきちゃん、おしりふこうか。」

「うん。」

このクラスでおしりの処理まで自分でできる子はまだいない。

「おうまさんになって。」

あきは床に手をついておしりをあげた。こういうことがあるので床もしっかり消毒はしている。おしりをふいたときにペーパーに少し血がついていた。「えっ」と思い、あきのおしりを確認すると少し切れている。便器を覗くと大人と同じくらいのものがあった。これじゃぁ痛いわけだ。でもどうしてこんな大きなものがこんな小さな体内で作られるんだろう。

「あきちゃん、おしり痛くない?」

もう一度聞いてみると

「うん」

と股の間を通して、少し元気のある声。いつものあきに戻りつつある。

「あきちゃん、もういいよ。おててあらってね。」

律儀に姿勢を保っていたあきは起き上がって流しの蛇口をひねって手を水にさらした。

「あきちゃん、ちゃんとて、あらおうね。ゆかにてをついたからね。」

消毒はしているが床は床だ。僕はそう言ってあきの両手に自分の手をそえてあきの右手と左手を2,3度こすった。

「はい、オーケー」

そう言うとあきは水を止め、棚にあるハンドペーパーを一枚取り出して手をふき、少しまるめて、ゴミ箱にぽいと入れてトイレから出ていった。

 僕は便器を覗き込みながら改めてその大きさに驚いた。彼女は食欲旺盛で何でもよく食べるけど、だからと言って出口でこの試練はないだろう。そう思いながらタンクのレバーをあげると、すぐには流れずびくともしなかった。「うそっ」とまたまた驚き、どうしたもんかと思っていたらゆっくりと少し斜めになりながら名残惜しそうにながれていった。

 あきはというと全く元気を取り戻し、パズルを始めていた。あれだけの不必要なものを体外に排出したのだ。身も心もすっきりとはこのことだよねとあきを見ながらそう思った。

 

棚などをふいた後は「かべ」の雑巾をすすいで各便器の間に立っている高さ90センチほどのパーテーションを含め壁を拭いて行く。周りの壁は腰の高さまでは普通の壁紙ではなく樹脂系の壁になっている。腰壁というものだ。この園はトイレに限らず廊下やホールも腰壁になっている。腰の高さまでは建物はなんだかんだ傷みやすいからその補強ということが大きな理由だが、材質を変えたり色を変えたりすることで内装のアクセントにもなる。

次に床をふく。床も壁とは別の樹脂系の材質になっている。ここの便器はおまるの親分のような形態で、2歳児の身体に比べると少し大きめだ。男の子も女の子も座ってするので、おしっこで便器の外を汚すことは少ないと思う。トイレが臭うのは床にこぼれたものや、立ってしたときに飛び散る小便だ。これらを適切に拭き取らず放置しておくと、そのうち何とも言えないにおいを発散することになる。トイレはもともと臭うものではない。家庭のトイレでそのうち何とかなく臭ってくるのは、男子がたってする小便の飛び散りを、そのままにしていることが一番の理由のような気がする。以前、僕も立ってしていた。恥ずかしながらそのころはトイレ掃除は連れあいにまかせっきりであった。連れあいは何も言わず一生懸命掃除をしてくれていた。ある時テレビの科学番組で立ってする小便の飛び散り実験をやっていた。じょうろをおちんちんに見立てて青い色のついた水を便器に落とすと壁と言わず床と言わず飛び散り、衝撃的だった。そのテレビの結論は「座ってするのが周りを汚さない一番の方法」というものだった。以降僕はトイレでは座ってするようにし、トイレ掃除も遅ればせながらしようと思った。

「あんた、なにしたの?」

トイレ掃除をすることを申し入れたときに明らかに、何かやらかしたなこいつ感、を出して聞いてきた連れあいに、おしっこの飛び散り具合について正直に話したら、少し怒気の含んだ声で

「今まであんたの不始末を私がしてたってことだよね。じゃあこれからずっと頼むから。(ぷい)」

てな感じだった。実際、立ってしているところなど見ていないので、今までは飛び散っているなんて想像もしなかったのだろう。しょうがない、今までお世話になってきたことだし罪を償わしてもらいます。ということで我が家ではトイレ掃除は僕の仕事になった。はずだったが、僕の仕事はプロの彼女から見て、全く不十分だったので、僕がしないわけではなかったが、やはり彼女が主力であることは変わらなかった。

 

想像に及ばないことは子どもに対してはよくある。

「たまだくーん、うんちでたー。」

このあいだ、太郎がパズルをやめて彼の専属うんち係の僕のところに来た。

「ええー、ほんとー?」

子どもの言っていることを、さも嘘を言っているような言葉遣いは慎まなければいけないのだけれど、これで3回目の「でたー」だった。1回目の「出たー」も2回目の「でたー」も出ていなかった。3回目の「でたー」も何もないだろうと思いつつパンツを見てみると、平べったいもちのようなものがペタッとおしりとパンツの間に挟まっていた。

「でとるやないかい。」

と独り言を言いつつ、まるっきり太郎のことを信用しなかった自分を恥じた。子どもの言うことと、子どもが思っていること、感じていることが必ずしもイコールでつながっているわけではない。太郎は「うんちー」と言って出ていないことがままあった。これは推測だが便意を催したり、おならが出たりした時も太郎は「うんち―」と言うようであった。出ていなくてもあながち嘘ではない。ついつい「でてないじゃん、うそいって」と言ってしまいそうだが、子どもは根拠のないことは言わない。大人の感覚では正確ではないことでも子どもの言葉の発達状況を考えるとストライクゾーンはできるだけ広くとってあげたほうがよい。

最近、太郎が

「たまだくーん、のんだー。」

と言ってきたときに

「なにのんだの。」

と聞くと

「これー」

と言って僕に見せたのは20センチぐらいにつながったチェーンリングだった。ままごとコーナーで食材か何かに見立てて使ってもらおうと思って置いたものだ。バラバラにすれば食べられなくもないが、基本的にここに置いてあるものはばらせないし、壊れた形跡もない。

「あーんしてごらん。」

というと素直に

「あーん」

と大きく口を開けたが見えるはずもない。

「たろちゃん、おなかとか、いたくない?」

「いたくなーい。」

と言うので、お迎えの時にママに話をして様子を見て欲しいと言った時

「すみません、また、変なことを言って。」

と笑いながら答えた。次の日、早番のリーちゃんがママに確認したところ、うんちにも混じってなかったようだと言っていたということを聞いた。太郎はいったい何を飲んだのか、別の何かを言いたかったのか、ストライクゾーンからかなり外れてボールはどこに行ったのかもわからないぐらい真相は闇の中だけど、幼児の想像力は大人の常識をはるかに超えていく。

 

「たろちゃん、ごめん、うんち出てたね、オムツ、かえようか。」

「うん」

太郎もいきなり謝られても何のことかわからないだろうが、とりあえずトイレの入り口のオムツ換えスペースに二人で向かった。

 

床が終わったら最後は便器だ。柄付きブラシと中性洗剤を棚から取り出し洗剤を便器の中にかけ、柄付きたわしでごしごしこする。便器のふちの裏の水が出てくるところも汚れるのでそこも忘れずこすり、タンクの水を流す。最後に「ベンキ」と書かれた雑巾で便器の外側を最初に拭き、そのあと便器のふちの上側から内側をふく。家でやるときはここは水で流せる掃除ペーパーでやる。雑巾でふいてそれを丹念に洗ってというよりは拭いた後、即廃棄できるほうが衛生的にいいような気がするが、園では経費の面で・・・ということだろう。最後に水洗いした「たな」用雑巾で蛇口やらタンクのハンドルなど金属部分をふく。次亜塩素系で消毒した場合、錆びる可能性があるからだが「えーい面倒だ」と思ってはしょることもないわけではない。

 次亜塩素酸を使ったトイレの消毒、おむつ替えが終わった後のマットや床の消毒、なにより、おむつ替えの場所を限定したり、手袋を着用したりと、日常的な活動で衛生を保ちながらおむつ替えを行っているが、時として保育園のトイレでは「衛生をたもちながら」などと悠長なことを言っていられないような「嵐」がやってくることもある。

 

先日の午後、部屋で過ごしている時、薫がパズルコーナーの後ろの壁にもたれてじっとしていた。彼女が暗い顔をしてじっとしていたり、わけもなくぐずぐずしているときは概ね便秘の時だ。おなかが苦しいとか痛いとかそんな感じになっているのだろう

「かおちゃん、だいじょうぶ?」

声を掛けてみたらこちらを見てかすかに頷いた。愚問だった。大丈夫なわけはない。

「おなかさすろうか。」

またかすかに頷いた。この間の散歩のときも帰る途中にしくしく泣き始め「どうしたの」と何度聞いても泣くばかり。しょうがないので抱っこして連れて帰り、ごろんと横になっているうちにウンチをして機嫌が直り、「あー便秘だったんだ。」とリーちゃんルーシーと納得した。

「ごろんして。」

薫に言うと薫はゆっくりとその場に寝転んだ。僕は薫のおなかをゆっくり丸を描くようにさすった。これを「手当て」というらしい。けがをしたときの「手当」のもともとの意味のようだ。以前持病の腰痛でつらかった時に息子の友だちのマッサージ師にさすってもらったことがある。手のひらを押し当てながらゆっくり円を描くようにさすってもらうと、腰がほんのり温かくなり、痛みも楽になった。おそらく血行が良くなったのだろう。腰とおなかと違うかもしれないが少しでも血行が良くなれば腸の動きも活発になるかもしれない。薫はじっと天井を見ていた。

「かおちゃん、おなかはってるの?」

ロッカーの中央あたりに立って子どもたちの様子を見ていたリーちゃんが言った。早番のルーシーはすでにあがっている。

「そのようですな。」

おなかをさすりながら僕はそう答えた。

眼の前のパズルコーナーのテーブルでは友子と幸夫がドミノを並べていた。ドミノは3センチ×4センチ厚さ5ミリの薄い直方体、色は赤、紫、黄、白などなど。以前にリーちゃんが遊び方を教えていた。二歳児にとって等間隔に並べることはなかなか難しく、立てることができる間隔は広すぎてドミノは倒れず、いい感じの間隔で立てると手がぶつかりドミノは倒れ、倒れるたびに友子と幸夫は顔を見合わせ爆笑していた。

僕たちの右隣のままごとコーナーでは麦と知香が丸テーブルに座って紙の財布とお金で買い物ごっこをしていた。紙の財布とお金は以前にリーちゃんが広告紙で折ったもので、お金はその財布に入るぐらいの大きさに広告を折ったものだ。白地のところにはいくつかの〇と縦棒が書かれていた。丸テーブルには果物や、野菜、肉などの食材、コップ、皿、布やひもが所狭しと並べられていた。二人とも手提げバッグを持ち、既にカバンの中には何か入っているようだった。二人は丸テーブルの開いたところで自分たちの財布の中身を出して見せあっていた。いったい何を比べているのか頭を寄せ合い財布やお金を見ながら何か小声で話をしていた。

 ままごとコーナーの奥の押し入れのところでは康江と波と渡がお医者さんごっこをしていた。医師の康江がタオル地の布でできた注射器で、パズルコーナーから持ってきた椅子に座っている患者の波の左腕に注射をしていた。その後ろに渡が同じように椅子に座って順番を待っていた。

「はい、おわり、なかなかったね、えらいね。」」

康江先生は注射のお終わった波に向かってそうほめたたえた。注射の終えた波は立ち上がり次の渡に席を譲り、康江先生のわきに立った。

「わたるくん、おなかだして。」

康江先生が渡にそう言うと渡は素直にシャツをめくっておなかを出した。康江先生は患者の話を聞かなくても何かお見通しらしい。床に転がっていたやはり同じタオル地の聴診器を首にかけ、おなかをポンポンと聴診器を当てて音を聞いていた。

「だいじょうぶ、おくすりだしますね。はい、つぎ。」

康江先生は交代を促していた。

「なみちゃんもやりたいー。」

「いいよ。」

康江先生は手に持っていた聴診器を新任の波先生に渡していた。

 絵本コーナーでは千穂と善が二人で寿限無の本を見ながら

「じゅげむ、じゅげむ、ごぼうの」

と唱えていた。テレビの教育番組を見て覚えたんだろうが字も書けないのに、意味も分からないのに音だけで覚えてしまう。言葉の覚え始めってすごい力を持っているんだなと思う。うちの子どもも1歳か2歳の時に母親が寝るときに歌った富山民謡の「こきりこ」をばあちゃんの前で披露し、ばあちゃんが

「この子は、天才ちゃうか。」

と言って大喜びしていた。

千穂と善は二人で声を合わせて唱えるのが楽しいのか、間違ったら最初からとか、途中からとか、とにかく楽しそうに何度も唱えていた。

 

 子どもたちが友だちと楽しく遊んでいる姿を見ると僕らも心が和むことを感じずにはいられない。

 などとほんわりした気分に浸っていると、かすかにほんわりとは違う、もやっとしたにおいが漂った。

「あれっ、かおちゃん、うんちでた?」

と聞いたが、僕のほうを見るばかりで答えない。(いまいち、出た感覚、まだわかんないかな)と思いながら

「かおちゃん、ちょっとごめんね」

小なりともレディーなので本人に断ったうえで僕は顔を薫のおしりに近づけた。

におった。間違いない。

「かおちゃん、うんちでたみたいだから、おむつかえよっか。」

「うん。」

返事はしたものの立ち上がるのもしんどそうだったので

「だっこする?」

と聞くと

「うん。」

と答えたので寝転んでいる薫を、僕の腕が薫のおしりを圧迫しないように立て抱っこして、トイレの入り口の前に薫をおろした。

「でたの?」

リーちゃんがこちらを向いて、さもよかったという風に僕に聞いた。

「そのようです。」

と僕は答えた。たぶん少し口元は緩んだと思う。薫のロッカーからおしり敷きとおしりナップ、パンツ型のオムツを出し、ビニール袋と手袋を準備した。入り口の壁に立てかけているバスマットを敷きその上に薫のおしり敷きを敷いて

「かおちゃん、ごろんして」

というと薫はゆっくりおしり敷きの上に寝転がった。ビニール手袋を右手にかけ、茶色のズボンを脱がしてパンツ型のオムツを破って広げてみるとコロンと丸いうんちが出てきた。

(あんまりオムツよごれてないな、かたいうんちだからかな)

と思いながら左手で両足を持ち、右手におしりナップを持ってふいていると「ゴロゴロ」とおなかが少しなったような気がした。

(あれっ、なんだろう)

と思った瞬間、茶褐色のドラゴンがうねるように突然現れた。ドラゴンは孤を描くように宙を舞った。僕は慌てて右手で受け止めようと思ったが、あっという間に手のひらから零れ落ちてバスマットの上にどさっと落ちた。ロッカーの前のリーちゃんに

「リーちゃん、リーちゃん!」

と呼びかけると、僕のトーンに異変を感じた友子と幸夫が、リーちゃんよりも先に「どうしたの、どうしたの」と寄ってきた。幸い夕方だったので子どもの数もずいぶん減ってはいたが普段、あまり聞かないおっさんの悲鳴にも似た声を聞き、ニオイもすればそりゃ「どうしたの」となる。残りの子どもたちも次々に現場に群がってきた。その後ろからリーちゃんがやってきて子どもたちの前にいったん出た後

「はいはい、みんな、ちょーっとうしろさがってねー。」

と言いながらまるで、ゴール前のフリーキックの時のレフリーのように、手を広げゆっくりと進みながら子どもたちを後ろに下げていった。

「はい、ここから前に出ないでね。」

と床に線をひくように足を動かした。幸夫がそれでも前に行こうとしたら

「ピピー、ゆきちゃん、でないでー。イエローカードだよー」

と即座に警告を発した。幸夫は慌てて規制線の後ろに下がった。

「リーちゃん、応援呼んできて、ちょっとこの状態では動けない。」

薫の足を離すわけにもいかず、離せばモノの上に足が落下してしまうだろうし、右手はモノまみれ、そんな姿をリーちゃんは見て、結構複雑な顔をしつつ

「了解いたした。」

と軽く言って子どもたちに

「これからみんなでじむしつにたすけをよびにいきまーす。おさんぽのときみたいにおともだちとてをつないでー。」

と言うと、子どもたちはあわてて近くのお友だちの手をつなぎ始めた。一人余った渡がきょろきょろしていると

「わたるくん、リーちゃんとつなご。」

と声を掛けると、渡は先頭に行き、リーちゃんと手をつないだ。

「しゅっぱーつ!あーる―こー、あーるーこー、わたしはげんきー!」

リーちゃんはいきなり「さんぽ」を歌い始めたが、いつものことなので子どもたちもすぐに反応して歌い始めていた。僕自身は、「わたしはーげんきー」という気分ではなく、モノに慣れている僕も、これほどのモノを手に抱えたこともなく、よくもこんなにとモノを見ながら、ただただモノとにらめっこをするばかりだった。

薫はというと周りが騒がしかったので少し戸惑いつつも明らかにさっきまでの暗い顔はなくなり、むしろ出すものを出してすっきりという顔つきだった。

「かおちゃん、ちょっとまっててね、おなかだいじょうぶ?」

と聞くと

「うん」

と答えが返ってきた。

すぐにフリー保育士のトッキーを連れてみんなが戻ってきた。

「早かったね。」

とリーちゃんに言うと

「ラッキーなことに途中でトッキーにあえたよ。」

とリーちゃんが答えた。トッキーに子どもたちを見てもらい、リーちゃんがかおちゃんのおしりをふいた。トッキーは去年の1歳児担任なのでこのクラスの多くの子どもたちと1年を一緒に過ごしている。リーちゃんが薫のおしりがかなり広範囲に汚れていたのであらかたふき取ったけれど、すっかりは取れなかったようで

「沐浴室に行ってお湯でふかせてもらうから。」

と言って薫の下半身に園のタオルを巻いて抱っこして連れて行った。僕は悲惨な状況になっている現場を片付けにかっかた。まず右手の手袋を裏返しにして外し、ビニール袋に入れ、横に置いてあったオムツや、おしりナップも入れて口を縛った。おしり敷きは私物なので大量の「ブツ」をできるだけ便器に振り落として二重にしたビニール袋を用意してそのまま入れた。これは事情を言って保護者に返す。保育士1年目の時、3歳児がおもらしをしたパンツを大して「ブツ」を振り落とさずにそのまま何も言わず返したら次の日「あのー、どういうことでしょうか」と聞かれた。控えめなお母さんだったからよかったようなものの、きつく抗議されても仕方なかった。すでにおっさんだったけど「若気の至り」だった。水洗いをして返してあげたいところだが、便を洗う際に何らかのウイルスが飛び散り、感染症がひろがる可能性があるので洗わずに返している。おしりに敷いていたバスマットはビニール袋に入れてそのままゴミ箱へ直行する。幸い床に「ブツ」はついていないが念のため雑巾で水拭きした後、次亜塩素酸で消毒をした。

 たぶん小ぶりのバナナ3本分ぐらいはあったと思う。「衛生に十分気を付けて排便の援助を行う」など吹っ飛ぶような事態だった。あきといい薫といい、このぐらいおなかに抱えていればそりゃ苦しいだろう。あらかた片付いた頃、薫がリーちゃんにだっこされた戻ってきた。

「たまだ君、かおちゃん、シャワー浴びながらなんか歌、歌っててめっちゃご機嫌だったよ。」

と言った。そりゃそうでしょ、あれだけたまっていたストレスがドラゴンに形を変えて消えたんだもの、天にも昇る気持ちで歌でも歌いたくなるでしょ。

めでたし、めでたし。