2歳児の保育「三つ子の魂デシデシドン10」

10,テクマクマヤコン

5月末

「なみちゃん、むーちゃん、まだー。」

しびれを切らしたルーシーがパジャマを着替えていない波と麦に声を掛けた。他の子どもたちの多くは午後のおやつを食べ終わろうとしていた。

「はーい」

と返事をしたのは波。麦はぼっーとしつつもしきりにおなかをぼりぼりかいていた。波は「見えない敵」と戦っていて「なみちゃんのだよ。」とか「もうほんとに※○☆♨なんだから」とか言っている。いい加減遅かった義樹のおトイレとおむつ替えが終わり、義樹がテーブルに向かったので僕は二人の間に座った。

「むーちゃん、なみちゃん、おきがえやってる。」

とりあえず声は掛けたものの二人の動きが早くなったというわけでもない。2歳児クラスは服の着脱、つまりお着換えもそろそろできる年齢に当たる。いっぺんにボタンのついたものは難しいので、できるだけボタンの少ない、かぶるだけで着脱できる服を着てくるとか、パジャマを持ってきてもらうように保護者にはお願いをしていた。

 麦のパジャマは上は白地に腕の部分がピンクのツートン。下はピンク。上着の中央で「美少女戦士」がポーズをとっている。波は茶色のクマのパジャマ。二人の目の前にはリーちゃんが着替えを並べておいてくれていた。上着は前が来るほうが裏にして置いてある。パジャマを脱げばそのまま服を着てズボンをはける、そういったリーちゃんの配慮なんだけど、子どもたちにしてみればそんなことはわからないようで、わざわざ服を取り上げ裏返しにして着ようとしたりする子どもも結構いたりする。

「むーちゃん、なみちゃん、おきがえしよ。」

もう一度声を掛ける。波は今、声を掛けられたのに気付いたという風に僕のほうを見て頷き、パジャマの上着を脱いだ。麦は相変わらず、ぼりぼりと体をかいている。乾燥体質なのだ。少しアトピーがあるのかもしれない。そもそも麦が午睡から目を覚ますこと、覚醒することはとても時間がかかる。起床時間になると人が多くなるロッカー側にあらかじめ布団を敷いておき、人より早く声を掛ける。以前にかけ布団をはいだら「ダメーーー!」と大声を出して、かけ布団を僕の手から取り戻したかと思ったらそのまま布団に抱きついて寝てしまった。一度では起きないので、何度か「むーちゃん、むーちゃん、おきるよ。」と声を掛け、さらに起きてきた子どもがかわるがわる声を掛けてくれて、ようやく起きる。起きた後もしばらく布団の上に座り、「むーちゃん、布団片付けるからちょっとよけて。」と言われてのろのろとよけるか、「ちょっとごめんね」と抱っこされ布団の横に置かれるか。だいたいそこが自分のロッカーの近くなので、そこで体をかきながら徐々に覚醒していく。はじめは夜更かしなのかと単純に思っていた。それとなくリーちゃんがお迎えの時ママに聞いてみた。

「むーちゃん、午睡の時に起きれないみたいなんですけれど夜はどんな感じですか。」

「朝もほんとに起きれなくて、夜は9時には寝てるんですけどね。」

そう言った麦ママは少しあきれたような顔をしていたようだ。ふとんをはいでいるとか、『ぱっぱらぱっぱパー、朝ですよー、起きろー』と叫ぶキャラクターの目覚ましを使っているとか、そんな話題でひとしきり盛り上がって話は終わったらしい。夜9時就寝はとりたてて遅いわけでもない。逆に9時に寝せるのはなかなか大変だ。お迎えが5時だとすれば家に帰るのが5時半前後。それからご飯作ります、食べます、風呂入りますとなればあっという間に9時に近づく。ましてや6時迎え、7時迎えとなればさらに大変なことになってくる。子どもの健康に明らかに差しさわりのある場合はともかく、各家庭の大変な事情にお構いなく「お母さん、もっと早く寝てください。」などとは言えない。そもそもこれは個々の家庭の事情というよりは社会全体の働き方や、家事分担の問題だ。

 そんなわけで麦についてはもうしばらく様子を見ることになったが、打つ手がないということが本当のところだった。ただ時間というものは有限でいつまでもそのままにしておくことはできないので、地道に次の行動の声がけはしていた。そのうちに徐々にではあるが覚醒するまでの時間は短くなってくると思う。たぶん、おそらく、そうなるはず・・・。

「むーちゃん、今日のおやつは、なんと、じゃじゃじゃーん、ドーナツです。あけちゃんたちが作ってくれたドーナツだよ、おいしいよ。おきがえしてたべにいこうよ。」

給食室の栄養士さんの名前を言ったりして話自体にアクセントをつけてみたが未だ覚醒には至らない。

 

かたや波はいまだに「見えない敵」との戦いは続行しているらしい。

「ちょっとこれなみちゃんのなんだからー。」

「なみちゃん、どうしたの?」

「ピンクいかみにするやつ、とられるー」

リボンか、髪どめか、カチューシャか。とにかく話を合わせて何とかおやつの方向へと気を向かせようという考えが芽生えてしまう。

「だれにとられちゃうの?」

「かえる」

どこのかえるだ、生きてるのか、ぬいぐるみか。こちらも想像が膨らむ。

「かえるもかみにするやつ、つかいたくなったんじゃない。」

「かみ、ないじゃん。」

仰る通り。

「なみちゃん、なみちゃんのドーナツ、かえるさんがたべちゃうかもよ。」

あっ、ちょっと脅かしてしまった。

「だめー。むしだよ、かえるたべるの」

あれ、カエルって、虫食べたっけか、カメレオンじゃないのか。自分の知識のあいまいさが時折子どもの発言で思い知らされる。

「おきがえして、たべにいこ。」

「タマダー、どう?」

波は時折、僕を呼び捨てにする。この間も午睡の時に

「タマダー、とんとん!」

と大声で叫んだ。僕は達彦のトイレに付き合っていたのだが、あわてて人差指を口に当て

「なみちゃん、しーだよ。ねるじかんだからね。あとでいくから、ちょっとまっててね。」

と答えた。もう血気盛んな若者でもないので、年少の子どもから呼び捨てされたからと言って逆上するようなことはない。むしろ何となくうれしい。仲間にしてもらえたようで。なんだか不思議だなと思うのは周りのみんなが「たまだくん」と言っているのに「タマダ」と言うことだ。呼び捨てが失礼なことだとわかっているはずはないし、「名前」と「くん」の「境目」がわかっているとも思えない。お友だちのことも「むーちゃん」「さおちゃん」だし、「リーちゃん」だし。「ルーシー」は、まあ全員が呼び捨てだけど。実はその他で呼び捨てを聞いたことがある。波の家で飼っているねこだ。ネコの名前を「ガルー」というらしい。波はよく「ガルーが、ガルーが」と言っている。ネコのガルー≒ヒトのタマダかもしれない。しかしそれを「姉御たち」はそのままにしておかない。

「なみちゃん、たまだくんはなみちゃんのかれしじゃないんだから、ちゃんと『たまだくん』ってよんでね。」

子どもたちと一緒におやつを食べていたルーシーが波のほうを振り返って言った。ルーシーもまた結構適当なことをいう。2歳児に「かれし」はどうなのよ。

波はルーシーのほうを向いてうなずいた後

「たまだくん、どう?」

と言いながら、せっかく着やすいようにリーちゃんが並べていたものを片手でつかんで僕に渡した。僕はもう一度リーちゃんが置いたように置いて

「このままきればきれるよ。」

と言いながら両裾を持ち、少し持ち上げて頭をくぐす格好をした。

波はそれで察したようで自分で白と紺のボーダー柄のTシャツを首にくぐらしたがそのあと首をくねくねし始めた。今度はだれかと踊っているらしい。

「なみちゃん」

と言った後「おやつなくなるけどいいの。」という言葉を飲み込んだ。

子どもによっては危機感を煽ると「いやだー」とか子どもが言って、こちらの言うことを聞くと「しめしめ」なんて思ってしまう。こっちもついつい煽りがちだが、はじめは何とか煽れば動いたのが、そのうち慣れて煽っても動かなくなり、さらに煽ってと際限がなくなり、結局脅すようなことになり、それでも言うことを聞かず大人が理性を失うということが繰り返される。自分自身振り返っても、とりわけ第一子ができて子育てというか子どもそのものが理解できず、大人の意のままに「ちゃんと」させようとしてやたら怒鳴っていたような気がする。ヒトとして新米の子どもと子育てが新米の親が向かい合う。そういう意味では第一子と親は特別な関係かもしれない。二番目の子どもからは親も余裕はできるだろうし、子どもも上の子の存在で違うだろう。

2歳児には要求が過大かもしれないけれど「腑に落ちて」「自分で納得して」「主体的に」行動する芽生えみたいなものはつかんで欲しい。だから保育士や親も含めた大人は「ちゃんとさせる」ことを優先して、やたら煽ったり、脅したり、さらには怒鳴ったりするべきではない。ましてや手を出すなんてことは論外である。これは僕自身の戒めでもある。

 

「むぎちゃん、びしょうじょせんしって、どうやってへんしんするの?」

麦のパジャマでポーズをとっている女の子を見ながら、僕は次の一手を繰り出した。それまでぼやーっとしていた麦が急に反応してたちあがった。麦が立ち上がったのにつられて波も慌てて続いた。

「どのこ?」

麦、覚醒。やる気満々で麦が尋ねた。

「どのこ?たくさんいるの?」

「いるよ」

当たり前じゃん、といった感じで波。確かに麦のパジャマには何人かいる。

「じゃ、このこ。」

と麦のパジャマで一番大きく描かれている子を指さした。

「☆×Ёね。わかった。」

麦がポーズをとりながら

「※Ё×☆〝♨―――!」

と僕には意味が取れない言葉を唱え、体をくねくねしながらポーズをとった。波はそんな麦を見ながらというか、真似をしてワンテンポ遅れてポーズを取った。

「へー、そうなんだ。じゃ、びしょうじょみたいにむーちゃんも、なみちゃんもへんしんしなくちゃ。」

ヨシ、結構いい手じゃないか、どうだ、と思ったが敵もさるもの、

「つぎは◎◆△※ね。」

と言いながらまた別の呪文をとなえた。

「むーちゃんはへんしんしないの?」

「ちょっとまって、つぎは₭₮♨◎ね。」

結局5人の変身をやり遂げた。横文字が多くおじさんにはさっぱりだ。昭和の変身呪文は単純だ。アッコちゃんは「テクマクマヤコン テクマクマヤコン」とコンパクトに言えば何にでも変身できた。実に効率が良い。ライダーは変身ベルトをつけてポーズを取りながら「へんしん!」と言えば変身できた。シンプルでわかりやすい。ウルトラマンやセブンに至ってはカプセルを空に掲げたり、メガネのようなものを目に装着して「ジョワ」というだけでよい。実はアッコちゃん、元通りになる呪文も持っている。「ラミパスラミパスルルルルル。」

これは美少女戦士の少女たちやライダー、ウルトラマン、セブンにはない。アッコちゃんは「変身状態」から日常に丁寧に戻っていく。それだけ日常を大切にしているように思える。

麦は午睡からなかなか起きられず、登園時、保育士に一番抱っこを求める甘えっ子ではあるけれど、普段はおしゃべりも上手な活発な子どもだ。ひとたび覚醒し始めるとどんどん活動的になる。更に今日は麦の好きなドーナツがおやつだった。そのことに気が付くと、さっさとトイレに向かい排泄を済ませてきた。麦は二歳児クラスに上がる段階ですでにオムツは外れていた。パジャマを脱ぐときも、白地にピンクのねこちゃんの絵柄の入った薄手のシャツを着るときも、紺地におしりのところが灰色の生地が縫われているズボンをはくときも、麦の目は友だちのぱくついているドーナツをしっかりとフォーカスしつつ、的確に手を動かして着替えた。敵を正確にとらえつつ手際のよい変身だった。パジャマを彼女なりに畳んで信玄袋風のパジャマ入れに入れ、パジャマ入れのかごにほり込み、手洗い場に向かった。手洗い場でも首は真後ろテーブルの方を向いていた。

「むーちゃん、ちゃんとおてて、あらうんだよ。」

後片付けをしていたリーちゃんに声を掛けられ、麦は向きなおって手を洗った。テーブルについた麦にルーシーがドーナツが乗っかっている皿と牛乳が入っているカップを置きながら

「むーちゃん、やっときたね。」

と声を掛けた。ドーナツを見ながら

「うん」

と言って、一瞬手を合わせて、あっという間にドーナツを食べ始めた。「いただきますは」とおそらくは言いたかったのであろうルーシーはリーちゃんと目を合わせて少し苦笑いをしていた。

 

波の戦いは終盤に差し掛かり、波も戦いにつかれてきたのだろう。漸くTシャツの袖を通し、立ち上がってパジャマのズボンを脱ぎ、ズボンを二つ折りに、上もさっと折ったようなおらないような状態でパジャマ袋に入れてかごに入れた。「お手伝いするから、たたんでみようか。」と声を掛けることもできたが、時間も時間なのでまた今度ということにした。毎日、毎日、「また今度」ではあるけれど。波は割と素早くオムツを脱いだ。蒸れていてかゆくなったのか、お尻を触りながらトイレに行った。僕は波が脱いだオムツを丸めてトイレのごみ箱にすてた。波はトイレに座ってじっと前を見ている。

「なみちゃん、でる?」

それには答えない。膀胱と戦っているのか。

 

きゃしゃで少しやせている波は脱ぐのは容易だ。ところが少し肉付きの良い武士や、達彦はうまく脱げない。腕を器用に畳んだり伸ばしたりすることが身についていないことに加え、余裕のある服を着ているわけでもない。子どもの成長は早い。気が付いたときに小さくなっていることもしばしばだ。それに加え子どもの服は高いので次々と買い替えるわけにもいかない。かくして成長が早く体格の良い子は着替えがしづらいことになる。

ある日、午睡前のお着換えの時、武士がやはり「できない―」と言ってべそをかいていた。べそをかいているということは悔しいのではあると思う。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ、てつだうから。こっちのてをあげてごらん。」

僕はそう言って左手で武士の右の手首を持って上にあげた。そのまま右手で武士のトレーナーの裾をつまんで僕の左手を離すと武士の右手がするりと落ちた。

「ほら、ぬげた。はい、こんどはこっち」

反対も同じようにして脱いだ。

「首はぬげる?」

一応聞いてみる。腕が手伝ってもらったとはいえ割と簡単にできたのでその勢いで

「うん」

と少し自信なさげに答えて両腕で服を引っ張り上げると、なんとか脱げた。服が脱げた一瞬、少しこすったのだろう、しかめっ面をしたがその痛さには我慢できたようだ。これが真夏の汗をかいた時のTシャツだと体に張り付いていてチャレンジしたもののやはり「できない―」と言ってまたべそをかくことになる。そんなことを何回か繰り返すうちに体全体はもちろん、指先にも力がつき、体の使い方も覚え、一人でお着換えができるようになる。着替えに限らず排泄や、手洗いなどの基本的生活習慣の習得などは子どものそれぞれの発達度合いを見て、言葉のやり取りをお互い楽しみながら、自分でできそうなところは自分で、保育士が手をかけたほうがよいところは手をかけて、ゆるゆると行うようにしていた。こういった日常的なことを子どもと大人で共に行うことで一種の連帯感は生まれるだろうし、いろいろなルールや、危険なことに際しての注意喚起など、大人が子どもに伝えなければならないときに子どもは大人の話に少しは耳を傾けるのだろうと思う。

 

波はトイレの入り口にある棚から自分のおしり敷きとおむつを持ってきてオムツをはき、おしり敷きを片付けた後、自分のロッカー前に広げてある茶色のズボンの前に座った。おやつを食べ終わった子どもたちは図書コーナーで絵本を読んでいた。ルーシーが真ん中にいて数人の子どもたちに絵本を読んであげていた。テーブルには太郎と千穂と麦、そしていまだ着替えていない波。リーちゃんは皿やコップを片付けテーブルをふいていた。図書コーナーには12人の子どもがおり、ルーシーが絵本を読み終わったところで

「おそとにいくからみんな、くつしたはいてぼうしをかぶってじゅんびをしよっか。」

と声を掛けた。子どもたちは本をバタバタとかたづけ、中には無理に本を押し込みそれぞれのロッカーに向かった。子どもたちが去った後の図書コーナーは少し残念な感じで本があっちこっちに向いており、ルーシーが本の向きなどを直していた。たぶん、もっと工夫して声を掛けりゃあ良かったとか思っているに違いない。この時のルーシーに限らず僕たちは毎日そんな感じだ。あーすればよかった、こうすればよかった。そう思いながら内心で自分自身の行為に舌打ちしながら仕事をしている。

 一転にわかに波の周りが騒がしくなった。波はここまで来てもゆっくりとズボンをはいた。ようやく変身が完了した。もし誰か意図しなくても邪魔になるようなことになれば波は「ちょっと、しないでー!」と言うだろう。実際に手を出したりする子ではないが言葉は反射的に出る。今度は見える敵に戦いを挑むかもしれない。ちょっとこれ以上遅くなるのも何だなーと思い、僕は波の気をひくために声を掛けた。

「なみちゃん、ピンクの髪留めかわいいね。」

と言うと波はしかめっ面をして

「タマダにもかさないよ。」

波はそう言って手を洗いに行った。ネコとカエルとタマダは同類らしい。

 ようやく全員のお着換えは終わった。一仕事終わったので僕も日常に戻ります。

「ラミパスラミパスルルルルル」

「タマダー!タマダはへんしんしてないでしょ!」

あれっ、・・・なみちゃんは手洗いだし、・・・空耳か?